私が子供の頃、家には百科事典のセットがあった。何かわからないことがあると、頭文字で分類されたページをめくりながら、その項目を探し出し、そこに答えがあるか探そうとした。それだけで答えが見つからなければ、図書館に行く計画を立てなければならなかった。
学校の論文も、調べ物だけで何時間もかかった記憶がある。資料を探し出して、その資料からインデックスカードにメモを取りまくり、そのメモを別の言い回しになんとか書き直して論文を肉付け、さらに引用を誤らないように何度も確認したりした。
論文のためにネットから情報や引用を探して利用したという経験は、私には一度もない。
ついでに言えば、当時学校へは毎日7マイル(約13キロ)、しかも行きも帰りも上り坂を歩いて通っていた。
さて、インターネットの最大の利用法のひとつ(もちろん、ポルノ閲覧に次ぐ最大の利用法)が、ありとあらゆる知的情報を、インターネット接続のある人なら誰でも革命的に簡単に手に入れられるという情報収集の点にあるのは、皆さんご存知のところ。
法律関係、医療関係、歴史、はたまた料理のレシピなど、わからないことがあれば何でも5分で調べられるのが今の時代。
そして、検索する時間が短くなるにつれて、情報収集のテクノロジーにも適切な改変が加えられ、サーチエンジンはいまや検索キーワードにより忠実で関連性の高い検索結果を吐き出すようになってきている。
最近ではよく人と会話しているときや、人に質問したり質問されたりしたときに、「それは考えてみなかったわ、後でちょっと調べてみる」、つまり、Googleに行って検索してみる、と言う機会も増えているように思う。(日本的表現には“ググってみる”)
まぁ、言うだけで、実際にはたまに調べるだけですが。
私は自分のことを知的怠惰人間とは思わないです。いや、実際はそうで、自分が認めたくないだけなのかも知れないけれど、ともかく自分のことをそういう風には思っていないわけです。でも確かに、いつでも簡単に知りたいものを調べられるせいで、調べ物に対しての緊迫感は失われる。
これだけ容易にどんな情報でも得られるという事実は、私をちょっと自信過剰にしているかもしれません。
時々忘れてしまうのは、いくら情報が楽に手の届くところにあったとしても、それをちゃんとサーチエンジンで調べて、その検索結果のページから情報を自分の脳内に格納させない限り、それは私自身の情報にはなっていないということ。
私が実際にそれらの知識を自分のものにしようと努力するまで、これらの検索結果は単に私の知識になりえる情報というだけで、私自身の知識にはなっていない。
これについて、若い世代のインターネット利用者がどんな風に思っているか、ちょっと興味があります。
もしかして、彼らは情報網がすぐそこにあってすぐに手に入るから、その情報を自分のアタマにしまわなくても、授業の点数さえ稼げていればいいと思っているのだろうかと。
そして、キーワードをいくつかタイプするだけで簡単に見つけることができる情報を、パソコンのワープロソフトにいとも簡単にコピー&ペーストで貼り付けて、楽々と文章を操作しながらそれらしい論文を作り上げても、その論文は本を丸々一冊読んで、手で何度も何度も書き直した論文と同じように、彼らの頭の中に残っていくのだろうかと。
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